RALLY TALK VOL.6 日本とドイツの架け橋に 恵藤英雄さん


VOL.6 日本とドイツの架け橋に 恵藤英雄さん


ドイツで開かれる卓球の国際大会には何をおいても駆けつけ、大きな声援を日本選手に送る、心強いサポーター・元炭鉱マンの恵藤英雄さん。

1934年台湾・新竹生まれ。その後、山口県で少年時代を過ごした。62年に旧西ドイツへの炭鉱派遣事業に参加し、ドイツへ。ゲルゼンキルヒェンで3つの炭鉱を渡り歩いたあと、53歳で退職。現在は卓球のコーチとして、日独両国の若手選手の育成と支援にあたっている。妻のギゼラ(Gisela)さんとともにゲルゼンキルヒェン在住。

Q ドイツに渡られることになった経緯はなんですか。
1958年に当時の西ドイツと日本で協定が交わされ、西ドイツは労働者不足を補い、日本は採炭技術を学ぶという名目で炭鉱マンの派遣が始まりました。身体検査で不合格になったり、祖母が亡くなるなどチャンスが巡ってこない中、第5陣の募集に応募しました。離職者が対象だったので人事部に「退職してもらう。もし派遣されなくても再雇用できるかわからないぞ」と言われたのですが、「それでも辞めます」と応募し、採用通知をもらった時はうれしかったです。

下関から横浜に向かう時にちょうど28歳の誕生日を迎えました。羽田からアンカレッジを経由して3月2日にデュッセルドルフに着き、とにかく寒かったのを覚えています。北海道から鹿児島まで全国から集まった計70人のうち、35人がゲルゼンキルヒェン、残りがハンボーンに送り込まれました。

Q 炭鉱マンの仕事はどのような感じでしたか。
仕事は本当にきつかった。地下950m、急勾配の箇所での仕事に加えて、作業道具がドイツ人の体格に合わせたものだったので、ピックハンマーとか削岩機とか全て大きいんです。小柄な日本人には使いにくくて大変でした。ものすごい炭じんがわき、組合がうるさい日本だったら必ず1時間の休憩、食事時間があるのですが、ドイツでは出炭量が少ないと怒鳴られる為、作業能率をあげなくちゃいかんと、パンをかじりながら仕事を続けたものです。職制も厳しく、係官が言ったことは絶対服従、3日間無断欠勤をしたら即座にクビとほんとに厳しかった。
ドイツに渡って2年目の頃、鉄柱に梁を立てかける作業をしていた時、上から塊炭が転がってきて岩石に挟まれるような形になってしまったことがあります。ピックハンマーでようやく救出されましたが腰にひびが入り、5週間入院しました。また運搬機器のチェーンに足を滑らし、あやうく脚を切断するような目にも遭いました。ケガは5ヵ所、合わせて36針縫ったあとがあります。

派遣者の中には自動車事故に遭ったり、母親が恋しくて帰国するものもいましたが、皆「日本人としてはずかしいことはしちゃいかん」と真面目に働きました。そのおかげで「日本人は勤勉だ、素晴らしい日本人だ」と評価が高く、差別を受けたことはありません。

Q 異国での生活に慣れるのにも苦労されたんではないですか。
今デュッセルドルフに住んでいる人は恵まれています。当時は日本の食べ物を買おうと思っても品物がく、普段は寮で出されるドイツ料理を食べ、和食といえば年2回、ボンの大使館からしょうゆ一人当たり0.25リットルと茶碗半分の味噌の差し入れのみ。米はパサパサの外米です。1964年にデュッセルドルフに日本のレストランがオープンした時には給料日に皆で押しかけました。

Q ドイツにはずっと住むつもりだったのですか。
派遣された炭鉱マンは3年間の労働契約だったので大半が契約終了とともに帰国しました。現地では結婚した人や大学に留学する人だけ残りました。私はドイツに来て1週間後に妻と知り合い、2年後には娘が、その4年後には息子が生まれたので会社と労働契約を新たに交わし、そのまま居ついてしまいました。
 特に 娘が生まれた時はうれしくって、疲れて家に帰ってきて抱き上げたら元気がどんどんでてきて、また仕事にいけると思ったくらいエネルギーをもらいました。今は娘・牧子の息子、ザシャ(15歳)と卓球を楽しんでおり、それが実に楽しく、生命力が増していく気がします。

Q 卓球との出会いはいつですか。
卓球との出逢いは14歳の時。少年時代を過ごした宇部市の社宅には娯楽室があり、そこに卓球台もありました。そこで男性ニ人がコーン、コーンととてもいい音を出して試合しているのを見て、子供心に「あぁかっこいいなぁ」と思いまして。父に卓球を始めるからラケットが欲しいと言って二人で家の近所のスポーツ用品店に行った。買ってもらったラケットは一番安い板ラケットではなく、コルク板のラケットだったのがうれしくって。

そしてその4ヵ月後、父は坑内で殉職しました。今思えば、ラケットを買ってもらったのが父親との最後の思い出です。
中学生の時、宇部・小野田地区の大会の個人戦で優勝できたのは、ない金をはたいてラケットを買ってくれた亡き父の気持ちに恩返しがしたいとフォアハンド、バックハンド、切り替えしと素振りを毎日1500本繰り返して練習した成果だと思います。なんでも一生懸命やらないとだめですね。ドイツに渡ってからは仕事がきつくてラケットを握ることはなかったのですが、右ひじを関節炎で悪くし、軽作業に移ってからは会社の卓球部にやるようになりました。

Q 退職後は卓球の指導をしたり世界大会の世話人として大忙しのようですね。
教え子はドイツ人を中心にトルコ人、韓国人、日本人と様々です。これまでで150人くらいはいるでしょう。ウクライナ出身のカタリーナ・ミハエロバ選手、カザフスタンのオルガ・コープ選手はドイツの女子1部リーグで活躍しています。

Q 卓球の指導を通して若い人と接する機会も多いかと思いますが、どんな印象をもたれていますか。
今の人は苦労を知らないから物を粗末にする。もったいないという言葉を知らないのではないかなぁ。例えばレストランに行っていろんなものを頼む。平らげればいいけど、手をつけずに残している。これでは国は滅びます。卓球の用具にしても私はシューズがなかったら裸足でプレーしたし、ユニホームは父のワイシャツの袖を切って自分で染めたり、割れたボールもセメダインで貼り付けて使ったものです。

Q 離れて40年以上になる日本をどのように見ていらっしゃいますか。

家族もここにいるから今さら日本で骨をうずめることは考えていません。でも祖国は祖国、故郷は故郷、日本からドイツに来る人のお世話もするし、大事に思うからこそ、経済大国として近代的に、便利になっていく中で日本人や日本文化が崩れるのではないかと心配になります。次世代に生きる若い人たちには日本人古来の謙虚さ、簡素の精神を忘れてほしくない。文明の進展、発達は喜ばしいが、ラクさを求めるあまり感謝の気持ちを失ったりすることがないようにして欲しい。若い人にとって海外に来ることがいい試練になるならば、是非来たらいいと思います。

ニュースダイジェスト一部抜粋

どうもありがとうございました。
今後も益々のご活躍期待しています。







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